神体山を拝する山麓の社
上社本宮
本宮は中央線上諏訪駅から東南へ約6km、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林、約500種の植物が群生する10万坪の社叢に抱かれるが如くに鎮座しております。また2km東方にある前宮と合わせて上社と称します。
諏訪大社は社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えています。中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残っています。また神体山を拝するという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも注目されております。
境内のほぼ真中に東宝殿、西宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で最も大切な御社殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行われます。軒からはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっております。
本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います。
諏訪大社 上社本宮
授与所
8時30分〜17時
宝物殿
9時〜16時
所在地
長野県諏訪市中洲宮山1
電話番号
0266-52-1919
諏訪大社 上社本宮
の見どころ
の見どころ
手水舎
手水舎の建物は1831年(天保2年)の建立です。脇を流れる小川は御手洗川で、古くはこの川で身心を清めてお参りいただいております。諏訪大社の七不思議の一つに「元朝の蛙狩り」というのがあります。毎年元旦に行われる「蛙狩神事」に、この御手洗川の神橋の上の一番高い所で氷を砕いて川底を掘り、2匹の蛙を捕らえ、神前で柳の弓を持って射通し、矢串のままお供えしますが、どんなに寒い年でも蛙が取れるため、諏訪の七不思議の一つとされています。
出早社
鳥居をくぐりすぐ左側にあるお社で、神舎の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大社の御子神出早雄命(いずはやおのみこと)です。古くからイボ神様として敬われ、小石を捧げていぼの全快を祈る風習があります。
神馬舎
駒形屋とも言い、諏訪大神の御神馬の屋形とされています。中世の記録には、諏訪湖に御神渡りができた朝、御神馬の身体中が汗で濡れており、付近の人々はお諏訪様が御神馬で湖上を渡られるのだと驚き畏れたと記されています。明治以降は現在のように木製の御神馬を祀っておりますが、明治27年7月に大風で近くの欅の大木が倒れ、この神馬舎が倒潰した時、御神馬は10mほど前に飛び出したため少しも被害がありませんでした。時恰も日清戦争の始まった時で、お諏訪様が御神馬に乗って戦場に向かわれたのだと伝えております。
重要文化財
額堂
文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を収めた所で絵馬堂とも言います。戦前までは廊下の上にも無数に掲げられていましたが整理されております。廊下の反対側にある柱が本宮二の柱ですが、曳き摺るために柱の裏側がすり減っております。尚三の柱は出早社の奥の神苑にあります。
入口御門 布橋
御門は1829年(文政12年)の建立で、地元の宮大工 原五左衛門が棟梁ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来栄えと称されています。長廊は約70m、三十八間あり、明治維新までは上社の大祝のみ通った所で、その時に布を敷いたことから布橋の名称がついています。かつての御柱祭における遷座祭では、婦人達が自分の手で織り上げた布を持ち寄り、神様(神輿)の通る道筋に敷いたともいわれています。
重要文化財
摂社末社遥拝所
大国主社
大国主社
1828年(文政11年)建立。上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の13所、中の13所、下の13所で合計39社の御名を掲げてあり、昔は十三所遥拝所とも言いました。現在大社の摂末社は神社関係が42社、下社関係は27社あり、明治以降独立した関係摂末社まで合わせるとその数は95社に及びます。関係摂末社は四社の境内をはじめ諏訪地域に点在しておりますが、その摂末社を朝夕こちらで遥拝します。
遥拝所の隣のお社は、大国主神をお祀りしております。
重要文化財
遥拝所の隣のお社は、大国主神をお祀りしております。
勅使殿
大国主命社の前、布橋の反対側にある高低二つの建物で、高い方が勅使殿です。中世の記録には、御門戸屋又は帝屋とあり、勅使が着座されたのでこの名称がついたと思われます。元和年間(1620年頃)に建てられ、のちに改築しています。
重要文化財
五間廊
大国主命社の前、布橋の反対側にある高低二つの建物で、低い方の建物は五間廊といい、神長官以下の神職が着座したところと伝えられています。1773年(安永2年)に建てられ、のちに改築しています。
重要文化財
宝殿
境内中央にある茅葺の建物で、本宮で一番大切な社殿です。二殿のうち左側を東宝殿、右側を西宝殿といい、御柱祭では交互に建替え、収められている諏訪大神の神輿をお遷しします。この宝殿の屋根からはどんなに干天の時でも最低三滴は水滴が落ちると言われ、宝殿の天滴と言って諏訪の七不思議の一つに挙げられています。諏訪大社が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
四脚門
2つの宝殿の間にある建物で、1582年(天正10年)に兵変に依り焼失したものを1608年(長慶13年)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じて造営寄進し、国家の安泰を祈願しました。別名を勅使門と言います。
重要文化財
神楽殿
1827年(文政10年)の建立で、上社では一番大きな建物です。大々神楽や湯立神事が毎日行われていたようですが、現在は残念なことにその神楽は伝わっておりません。中に納めてある大太鼓は江戸時代に作られ、直径が1m80cmもある大きなものです。
重要文化財
天流水舎
神楽殿の前の屋根にエントツのようなものがついた社殿で、俗にお天水といいます。どんな晴天の日でも雫が入り、宝殿の軒からの天滴と共に中の井戸に溜まると言われ、雨乞の折にこのお天水を青竹にいただいて帰り、神事をすると必ず雨が降ると伝えらえています。運ぶ途中で休むとそこで雨が降るので、昔は若者達がリレー方式に運んだそうです。このお天水は天竜川の水源とも伝えられています。
重要文化財
五穀の種池
小さな石の池で、かつては毎年春になると種籾を浸してその浮き沈みに依って豊凶を占っていました。
雷電像
諏訪大神は昔から力の強い神様としても知られています。特に相撲とは関係が深く、多くの力士が参拝しています。この像は江戸時代に活躍した信州出身の大力士「雷電」の等身大で、お諏訪様に拝礼の誠を捧げている姿です。かつての横綱「柏戸関(鏡山親方)」がモデルだといわれています。
一之御柱付近
布橋のはずれ、玉垣の外にある柱が長さ五十五尺の一之御柱です。
御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つお沓石です。真ん中の凹んだところが、お諏訪様のお沓のあとだとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。玉垣の角の石の柱は、天逆鉾で、江戸時代の国学者が「神跡石上残」と「たまちはふ神のみくつのあととめてこのとこいわのいくよへぬならむ」と刻んでいます。
御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つお沓石です。真ん中の凹んだところが、お諏訪様のお沓のあとだとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。玉垣の角の石の柱は、天逆鉾で、江戸時代の国学者が「神跡石上残」と「たまちはふ神のみくつのあととめてこのとこいわのいくよへぬならむ」と刻んでいます。
勅願殿
宝殿に向かって左の上段にある建物、昔は行事殿とも御祈願殿とも言って朝廷や諸侯の祈願を行ったところとも伝えられます。現在の建物は一六九〇年(元禄三年)に諏訪高島藩によって建てられたものを、安政年間に修理しました。
重要文化財
幣拝殿 / 左右片拝殿 /
脇片拝殿
脇片拝殿
本宮の幣拝殿は独特の形式を備えています。正面に幣殿と拝殿が続き、その奥に本殿はありません。拝殿の左側を右片拝殿、右側は左片拝殿といい、山を背にした建物を脇片拝殿と言います。
昔の建物は極彩色の社殿でした。1617年(元和3年)に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建されましたが、その建物は、諏訪郡富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。これは桃山時代の代表的建築物として重要文化財に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保2年から9年(1838年)まで8年の歳月を要して、2代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工五左衛門新成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られています。とくに片拝殿の「粟穂と鶉」や「笹に鶏」の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つといわれ、拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸といわれています。
重要文化財
昔の建物は極彩色の社殿でした。1617年(元和3年)に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建されましたが、その建物は、諏訪郡富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。これは桃山時代の代表的建築物として重要文化財に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保2年から9年(1838年)まで8年の歳月を要して、2代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工五左衛門新成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られています。とくに片拝殿の「粟穂と鶉」や「笹に鶏」の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つといわれ、拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸といわれています。
硯石
脇片拝殿の屋根上に見える石で、この石の凹面には常に水を湛えているところから硯石の名称がついており、諏訪七石の一つです。鎌倉時代の大社の古い神楽歌に
大明神は石の御座所におりたまう おりたまう みすふきあげの 風のすすみに
とあり、古い記録ではこの一帯が上壇で、お諏訪様がこの石の上に御出現になられたと伝えられる由緒深い御石です。尚、その記録では中段が玉の宝殿、下壇が巌の拝所と記されており、現在の神楽殿の前あたりに拝所御門屋があり、更に古絵図ではその近くに延長百二十間に及ぶ廊下があって、参詣者はその廊下から御山(神体山)を拝していたようです。
大明神は石の御座所におりたまう おりたまう みすふきあげの 風のすすみに
とあり、古い記録ではこの一帯が上壇で、お諏訪様がこの石の上に御出現になられたと伝えられる由緒深い御石です。尚、その記録では中段が玉の宝殿、下壇が巌の拝所と記されており、現在の神楽殿の前あたりに拝所御門屋があり、更に古絵図ではその近くに延長百二十間に及ぶ廊下があって、参詣者はその廊下から御山(神体山)を拝していたようです。
塀重門
神橋
高島社
御祭神
諏訪頼忠公 大祝中興の祖・諏訪藩祖
/諏訪頼水公 大祝・高島藩初代藩主
/諏訪忠恒公 高島藩二代目藩主
例祭日 9月23日
本来の例祭日は9月23日であるが、最近は8月12日に神裔ご参列のもと例祭を執行している。
諏訪氏は当大社の御祭神 諏訪大神の子孫で、上社最高の祀職大祝となり更に藩主として政治を行った。この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である。御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている。
諏訪頼忠公 大祝中興の祖・諏訪藩祖
/諏訪頼水公 大祝・高島藩初代藩主
/諏訪忠恒公 高島藩二代目藩主
例祭日 9月23日
本来の例祭日は9月23日であるが、最近は8月12日に神裔ご参列のもと例祭を執行している。
諏訪氏は当大社の御祭神 諏訪大神の子孫で、上社最高の祀職大祝となり更に藩主として政治を行った。この祭政一致の形態は往古より続く諏訪の特徴である。御祭神は江戸時代初期における高島藩中興の藩主三代の御遺徳を尊びお祀りしている。
波除鳥居
当社唯一の木造鳥居。昭和15年(1940年)紀元2600年祭の折、建て替えられたものを平成21年(2009年)全解体修理を行い再建立したものである。
お沓石
諏訪七石の一つで、諸説ありますがお諏訪様の沓あととも伝えられています。毎年4月28日に例祭を行います。
銅鳥居
宝物殿
諏訪大神のご神徳にまつわるご宝物の数々が収蔵展示されております。
拝観料:大人 500円、小人 300円
共通券:大人 800円、小人 500円
開館時間:9時〜16時
休館日:年中無休
上社本宮
麟鳳瑞花八稜鏡
(りんぽうずいかはちりょうきょう)
室町期に前宮から本宮へ祭事の拠点が移されるまで、前宮内御玉殿の御神鏡であったと伝えられる白銅の八稜鏡で、獣形のつまみを中心に麒麟と鳳凰が交互に描かれ、間に大小の瑞花や雲型が散らされた奈良時代の和鏡である。